2006-12

2006年も・・・

今年最後のブログの更新になります。
結局、今年も煩悩は捨て切れず、108どころでは無いぐらいの煩悩を抱えたまま、歳を越さなくてはいけないみたいです・・・私Ψ(`▽´)Ψ

このブログも初めてかれこれ3ヶ月ちょい、正直今年のMVPは

でしょうΨ(`▽´)Ψ 。

さて、今年最後の記事のネタは何にしようかと悩んだ挙句・・・、これに決めました♪↓

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そう・・・その辺に在った、未紹介の軍事郵便達の一部です。
この辺りの、名も無い?軍事郵便を、これからもちょっとづつご紹介して行こうと思っておりますので、来年もぐーたらな磯風を見捨てずに暖かい目で、見守って頂ければ幸いです。

本年は、アホな私のブログにお付き合い頂き有難うございましたm(_)m。

皆様、良いお年をお迎えください。
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仏領インドシナからの到着便

手抜き記事の第五夜Ψ(`▽´)Ψ
今日は仏領インドシナからの到着便で攻めてみましょう♪

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開戦後の日本宛ての外郵からの郵便です。

昭和17年6月13日に仏領インドシナ(現在、カンボジアのプノンペン)差出でサイゴンの中央局で検閲を受け、日本の商社マンに宛てたものです。

今日も詳しい説明はお休みさせて頂きます。
来年、早いうち(期限をきちんと書かないのがミソΨ(`▽´)Ψ )から普通バージョンに戻ります(^^)暫しお待ち下さいm(_)m

保安隊内分室

手抜き記事の第四夜Ψ(`▽´)Ψ

戦後発足した、自衛隊は三回も名称変更を行い、現在に至っています。初めが警察予備隊、次の時代が保安隊とよばれました。
今日は、そんな保安隊時代の保安隊内分室差出の現金書留をご紹介しましょう。

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消印は、早岐/保安隊内 27年10月21日。
アドレスは、保安隊、針尾駐屯地 第64連隊 本部中隊 です。

この現金書留も詳しく記事を書いたら面白いのですが、如何せん、今日も手抜きモード中なので省略させて頂きますm(_)m。

軍事郵便為替金受領證 その2

今日も、手抜き記事の第三夜です♪

昨日は第一でしたが、今日は別の郵便所ですΨ(`▽´)Ψ

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第二と第六です。
余り、こればかりしつこくやってると飽きますので、日中戦争時代の原符は今日でおしまい♪・・・太平洋戦争期や、以前の原符はまた、気が向いた時にUPしますねΨ(`▽´)Ψ

今日ももちろん手抜きなので説明は省略しますΨ(`▽´)Ψ

軍事郵便為替金受領證

今日も、手抜き記事の第二夜です♪

俗に言う受領証原符です。その海軍軍用郵便所使用です。

とりあえず、第一海軍軍用郵便所の使用例を2点ご紹介しましょう♪

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割と保存状態が綺麗で個人的には、好きな使用例です。

手抜きなので説明は省略しますねΨ(`▽´)Ψ

中立国よりの到着電報

ヤヴァイ!!師匠も走る師走・・・・忙し過ぎで(忘年会と遊びすぎてΨ(`▽´)Ψ )作り置きの記事の底が見え初めてしまった・・・。
20年4月の徳山海軍燃料廠みたいです・・・汗。

って、事で、急遽臨時ネタで乗り切る腹積もりを今、決めました。

今日から、年末年始マトモナ記事は無くなりますΨ(`▽´)Ψ 覚悟しておいて下さい。・・・・まぁぁ・・まともな記事書くのは人のネタパクッている時ぐらいなんで、基本は、いつもと変わらないのですが・・・とりあえずここ数日は、いつもに増して手を抜かせていただきます。
(あぁぁぁぁ・・・又、一つ悪の歴史が・・・Ψ(`▽´)Ψ )

まずは、手抜き記事第一夜♪
今日は、太平洋戦争勃発後、中立国であったアルゼンチンの首都ブエノスアイレスより神戸に宛てた国際電報をご紹介しましょう。

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到着証示印は、KOBE・CT 42.10.18 です。
このマテリアルは、電報としては、少し欠損部も有り余り状態の良いものではないですが、大戦中の日本への到着電報としては大変貴重なものとおもいます。

詳しい説明は、この分野の餅屋さんがおられますので、その方のこのブログへのコメントを待ちましょう♪ね!イ・イ・ダ・バ・シ・君
↑ほんっとに他力本願の磯ですね♪

海軍特別航空葉書-返信部

世間はクリスマスですが、此処のブログはそんな事はおかいまい無しにマイワールド化していますΨ(`▽´)Ψ

今日は海軍特別航空葉書を使った軍事郵便の複片部を使った使用例です。この葉書は、当時の国内第2種葉書料金を貼るだけで、戦地へは航空便で送達されると言う優れものの制度でした。
貼られている料金は、時代(太平洋戦争中)により3種類に分類され、2銭、3銭、5銭の各時代の使用例があり、最難関はやはり5銭時代の使用例でしょう。(因みに5銭の例は当会の所持品にも有りません・・・ぐすん。○○孝○さん〔この分野の大家様にて大先輩〕プリーズ・ミー。)

今日、ご紹介するのは、海軍ものでは一番現存量が確認されている2銭の特設巡洋艦護国丸からの使用例です。(因みに陸軍の特別航空葉書の料金的な現存比率は海軍とほぼ同等ですが、絶対数はやはり陸軍の方が多いです。)

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海軍特別航空葉書の標準版使用。
埼玉・戸ケ崎 18年3月18日差出。
特設巡洋艦「護国丸」宛。

特設巡洋艦 護国丸
大阪商船客船興国丸を建造中に護国丸と改名、10438t、大阪商船の優良船として就航。
昭和17年 6月30日、海軍が徴用。
   同年 8月10日、特設巡洋艦となり呉鎮守府所管と仮定。
   同年 9月25日、呉鎮守府所管特設巡洋艦として入籍。
   同年10月 2日、艤装完成。
  18年10月 1日、特設運送艦。
   同年11月 7日、基隆出港後呉へ航行中の10日、長崎県生月島北西約15kmでアメリカ潜水艦(SS220)バーブの発射した魚雷2本を左舷機械室に受け、さらに右舷第4船倉に魚雷1本を受けて3分後に沈没。
姉妹船には、報国丸と愛国丸があります。

この特別軍事航空葉書は、非常に面白い分野なので、機会が有れば、色々なパターンを順次ご紹介して行きたいです。

軽質油(ガソリン)運搬艦 洲崎

昨日の大嘘つきで、完全に信用を無くした磯ですΨ(`▽´)Ψ
名誉挽回の為に今日は特務艦の「洲崎」をご紹介しましょう。

洲埼級の給油艦は、主に軽質油(ガソリン)の運搬用に作られた艦で、
昭和14年海軍軍備充実(④)計画給油艦第103号艦として三菱重工業横浜造船所に発注されました。
17年9月25日、特務艦洲埼と命名
18年2月 3日、横浜海軍監督官事務所内に艤装員事務所を設置
 同年5月15日、竣工、4465t
19年9月21日、フィリピン、ルソン島マニラ湾内でアメリカ機の爆撃を受けて沈没
20年3月10日、除籍

同型艦は5隻計画され、完成したのはこの洲崎と高崎(潜水母艦に命名予定でしたが、空母に変更され、命名されなかったのでこっちに採用)のみでした。

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今日ご紹介する葉書は軍事郵便では有りません。
(この葉書は検閲は有りますが、内地(港)の一般郵便局持ち込まれた一般扱いの葉書なので有料の普通便です。)
アドレスは、横須賀局気付洲崎となっています。
消印は、臨41、18年11月4日となっています。

この臨時局の消印はなぞの多い印で、港(軍港など)に在る一般郵便局が、港に軍艦が入港する都度入港地を秘匿する為に使用した消印と言われています。が、現在、どの臨時局がどの局かまだ全然特定出来ておりません(発表されてません)。
因みに、カタログ評価の高い印影ですが、臨時印の中ではこの臨41が一番存在量が多いのではないだろうか・・・と、思います。

此処で、重大発表Ψ(`▽´)Ψ
臨41局は「横須賀」です。
まぁぁ・・・何で臨41が横須賀なのかは、聞かないで下さい♪
情報ネタはとあるソースとだけお答えしておきましょうΨ(`▽´)Ψ

臨時局(海軍関係)については現在資料を集めて研究中なのですが・・・如何せん資料が少なく混迷しております。ここ数年中にちゃんと研究成果として発表出来れば良いのですが・・・汗。っか、したいです(><)発表。
此処の読者の皆様で、何か良い資料をお持ちでしたら、磯にご教授頂けないでしょうかm(_)m宜しくお願いいたします。(データのコピー協力も大歓迎です。)

第33師団

もう完全に狼少年化してますねΨ(`▽´)Ψ 私・・・・。
完全に約束破りの師団シリーズは第33師団の軍事郵便です。
(もう一通スキャンしてたのを忘れてました・・ヤヴァイヤヴァイ・・もう一日、師団シリーズにお付き合い下さいm(_)m)

ここからは真面目にやりますね。

今日の第33師団は、日中戦争勃発後、戦地の第一線級師団に変わり占領地の治安維持などの為に新設された30番台の師団の一つで、新設されたのは昭和14年2月7日、編成地は仙台で兵員補充区は宇都宮でした。編成後、華中に進出、16年に華北に転出しました。師団の通称号は「弓」でした。

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今日の軍事郵便は、ビルマ派遣 弓6827部隊で、第33師団通信隊のものです。

太平洋戦争勃発後初期からビルマ攻略に参加した師団で、17年1月には師団主力がバンコクに進出し、陸路ビルマに向かいました。緒戦で英印軍を撃ち破り、エナンジョン攻略後ビルマ北部で掃討作戦に従事しました。17年末にこの師団から分派した宮脇支隊(歩兵第213連隊基幹)が英印軍の反撃に遭いましたが、第55師団の援護を受けてこれを撃退しました。
19年3月、師団は第15師団、第31師団と共にインパール作戦に参加ア、ラカン山脈を横断して南方からインパールへと迫ろうとしましたが、英印軍の抵抗と食料の欠乏によって師団の兵力は半減、しかもインパールまであと十キロちょいの所まで来て英印軍の攻勢に釘付けされる形となりました。
この間、度々作戦中止を申し立てていた柳田元三師団長が牟田口廉也、第15軍司令官によって解任された話は有名です。
作戦は、7月13日に中止されましたが、侵攻以上に撤退で困難を極め師団は壊滅的な打撃を受け撤退、タイ領内に撤退した所で終戦を迎えました。この時の上級部隊は、ビルマ方面軍でした。

このインパール作戦の敗北によってビルマ戦線は崩壊し、各地での武装蜂起、英印軍の侵攻により、ラングーンも20年5月に陥落してしまうのです。

この師団の戦没者は1万5023人でした。

明日は、本当にお約束通り海軍関係のマテリアルをご紹介しますね。

第114師団

悪乗り連荘師団シリーズです♪
(流石に4連荘は飽きますね・・・明日は何か海軍モノをご紹介しましょうΨ(`▽´)Ψ )

っと、言う事で、今日は第114師団の軍事郵便をご紹介しましょう。

この師団の通称号は「将」で、編成地は華北で補充区は溝の口でした。この師団は、昭和12年の盧溝橋事件勃発後、宇都宮の留守第14師団の担当で編成された師団でしたが、14年に一旦復員、解体された師団でした。
昭和19年7月、華北の独立歩兵第3旅団を基幹として山西省臨汾で再編成されました。この師団は山西省で終戦を迎えましたが、一部の将兵はそのまま残留し、閻錫山に従って国共内戦で共産党軍と戦いました。因みに、終戦時の上級部隊は第一軍でした。

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この軍事郵便のアドレスは、北支派遣軍 将第1463部隊で第114師団独立歩兵第201大隊差出です。

第61師団

今日も師団シリーズ、第61師団の軍事郵便です。
(調子乗ってます・・・・ハイ♪)

第61師団は、通称号「鵄(とび)」、昭和18年3月に東京で編成された師団で、兵員補充区も東京でした。
終戦時は上海に展開し、上級部隊も昨日ご紹介しました第118師団と同じ第13軍でした。
この師団は、独立第61歩兵団を母体に編成され、編成後はビルマ戦線に転用された第15師団の後を継いで南京に進出、南京~蕪湖一帯に展開して同地区の警備にあたりました。20年2月に上海に転進後、対連合軍上陸に備えて陣地構築中に終戦を迎えました。

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この軍事郵便のアドレスは、中支派遣軍 鵄第3062部隊で、第61師団歩兵第101連隊差出です。

第118師団

今日は、昨日に引き続き、師団シリーズの軍事郵便です。

第118師団は、昭和19年7月に華北の独立歩兵第9旅団を基幹として編成された師団です。兵員の補充区は京都でした。
この師団は、編成後、駐蒙軍に所属して大同付近の警備に従事してましたが、20年4月に上海方面防衛強化の為に第13軍隷下となり、華中に転進しましたが、8月9日のソビエト軍の満州、内蒙古への進軍を受けて、師団はソ連の進攻を阻止すべく11日より北上を開始、15日に張家口にたどり着いた時点で終戦を迎えました。
師団通称号は「恵」でした。

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この軍事郵便のアドレスは、北支派遣軍、恵第15639部隊で、独立歩兵第401大隊差出です。

第34師団

久々に師団シリーズの軍事郵便と行きましょう♪

今日ご紹介するのは、中支那の治安部隊として編成された第34師団です。

中国で第一線部隊と交代する為に昭和14年2月7日に大阪で編成された師団で、編成後直ちに中国戦線に投入、武漢、南昌などの警備に従事、昭和16年の錦江作戦では主力師団として戦い多大な犠牲を出しています。太平洋戦争勃発後、これまでの乙師団から、砲兵を欠いだ丙師団に改編され、以後火力不足に悩まされた師団となりました。20年1月まで行われた湘桂作戦参加後、華中方面の防衛強化の為に転進中、九江付近で終戦を迎えました。
部隊の通称号は「椿」最終上級部隊は、支那派遣軍でした。

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この軍事郵便のアドレス、椿 第6843部隊は、第34師団、歩兵第217連隊で、原隊は大阪、補充区も大阪の部隊でした。

南部仏印進駐

先日、北部仏印進駐をやったので、今日は南部ですΨ(`▽´)Ψ (安易だとは言わない様に!!事実、安易なんだから・・・爆)

1941(昭和16年)6月22日、ドイツがソ連に対してバルバロッサ作戦を開始しました。日本は、日米交渉が進展しない中、日本のライフライン南方資源地帯への進出基地とする為、7月に南部仏印進駐を開始しました。この事態を受けてアメリカは日本に対し、さらに態度を硬化させ、対日石油輸出禁止、在米資産凍結など厳しい経済制裁を科せました。さらに、英国、蘭印なども対日石油禁輸に足並みを揃え、「ABCD」包囲網に囲まれた日本は、四面楚歌の状態に陥りました。

今日、紹介しようと思うのはそんな南部仏印に進駐した部隊の軍事郵便です。

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昭和16年10月25日、第207野戦郵便局差出の軍事航空便です。

この部隊は、近衛歩兵第4連隊第3大隊で、先日ご紹介した近衛第2師団に属した部隊でした。この部隊、主力はサンジャック先遣隊として7月29日、サイゴン外港のサンジャックとバリアに上陸しました。
アドレスは、先の北部仏印進駐と同じ西村部隊気付となっていますが、西村兵団の印度支那派遣軍は6月に一時解体され、本格的な野戦旅団の独立混成第21旅団に改編されています。

祝・ブログ開設3ヶ月!!

いやぁぁ・・・ズボラな私にとって今日は記念すべき快挙を成し遂げた記念すべき日に成っちゃいましたΨ(`▽´)Ψ

なんせ・・・ブログ開設3ヶ月!!しかも休む事無く毎日UPし続けての3ヶ月なんですよ!!
これは、快挙としかいいようがないでしょう♪

つー事で、今日は自分にご褒美!!映画を観に行って来ました♪
映画の題名は・・・・

「硫黄島からの手紙」

です。
映画の内容は、私的には、涙無しには語れない内容でした。
何がすごいって、こんな映画を外国人が作ったって事なんですよね。
とある方とお話していた事なのですが、この映画は、良い意味でアメリカでの興業収入が低いであろう映画と私は評価しました。この意味は此処では長くなるので省略しますが、百聞は一見にしかず、とりあえず皆さん映画館へ観に行ってください、磯的に本当にお勧めの映画でした。
(少し無理な設定、演出はご愛嬌って事でw)

これからのご紹介アイテムとして、硫黄島関係の軍事郵便やマテリアルの紹介も考えたのですが、この時期のマテリアルのUPは、何かブームに乗っての展示の様な気がしますので、もう少しこの熱(世間的な)が収まってから硫黄島特集を組みたいと思います。暫しお待ち下さい。

今日は、恒例(にしやがったぞ・・・こいつ!)の節目雑記なので画像UPはなしです。が、これからもこのブログを宜しくお願いいたします。m(_)m

さー今から飲みに行こうΨ(`▽´)Ψ

北部仏印進駐

ポーランドをソ連と分割したドイツは、続いてノルウェー、デンマークに侵攻、1940(昭和15年)年月にはパリが陥落、フランスが降伏、フランス南部には、親ドイツ政権のヴィシー政府が樹立し、フランスの植民地は、イギリスに亡命した政府とどちらに付くのか、意見が分かれる事となりました。仏領インドシナもこの選択をせままれ、ヴィシー政府側につきました。
この頃、日本は蒋介石ルートに悩まされており、このルート遮断の為、北部仏印進駐を、三国同盟を利用して、ヴィシー政府に認めさせました。しかし、この事は、アメリカの対日態度を硬化させる事ちなり、ルーズベルト大統領は鉄くずの対日禁輸などの経済制裁を行いました。

今日、ご紹介する軍事郵便は、北部仏印進駐の為、仏印の国境に近い広西省の竜州に開設された第205野戦郵便局引き受けの軍事航空便です。

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この北部仏印派遣軍は西村琢磨少将を司令官に昭和15年9月に編成された部隊で、南支那方面軍の隷下で平和進駐を目的として仏領インドシナに進駐しました。しかし一部では現地でも意思の疎通による武力衝突も有り、実際は大変リスクの大きな作戦になってしまいました。

※今日の軍事郵便のアドレスにある、鈴木(和)部隊三橋部隊は、部隊名を調べるのが面倒なのでいつもの如くズボラしちゃいました・・・・・てへっΨ(`▽´)Ψ

航空母艦 蒼龍

今日は航空母艦の「蒼龍」をご紹介しましょう♪
以前のタカの一族と混同する原因の一つの空母なんですよね・・・こいつ・・・・。なんせ・・・蒼鷹と書いて発音は「あおたか」んで敷設艦こっちは蒼龍と書いて発音は「そうりゅう」・・艦種は正規空母なんですよね・・・んで、商船改装空母に付ける名前には鷹「よう」が付くルールだし・・ねΨ(`▽´)Ψ

まぁ・・・脱線はさておき本題です。
昭和9年、艦隊整備(②)計画第1航空母艦として発注後に友鶴事件により設計変更、同年11月1日軍艦蒼龍と命名、呉工廠で起工昭和10年に発生した第4艦隊事件により設計が変更変更され同、12月23日進水、12年12月29日竣工後、第2艦隊第2航空戦隊に編入されました。その後15年北部仏印進駐に備えて海南島に派遣、中国沿岸で封鎖作戦に従事後、4月10日第2航空戦隊は第1航空艦隊に編入され、11月26日択捉島単冠湾出港、空母赤城等からなる機動部隊に所属して12月8日、ハワイ、オアフ島真珠湾を空襲、12月23日には第2次ウェーク島攻略作戦を支援して内海西部に帰投しました。17年に入り、アンボン島攻略作戦を支援、ポート・ダーウィン空襲、チラチャップ空襲、コロンボ空襲、トリンコマリー空襲をなどを実施、9イギリス空母ハーミーズを撃沈なれど、6月6日ミッドウェー海戦に参加中、アメリカ海軍空母搭載の急降下爆撃機12機による攻撃を受けて爆弾3発が命中して沈没。柳本艦長(戦死により少将に昇進)を含む准士官以上35名下士官兵683名計718名がお亡くなりになり、8月10日に除籍されました。
↑まるでどッかの本に書いて有るかの如くの説明文Ψ(`▽´)Ψ
実際・・・某HPの丸写しです・・・ハイ(汗
(きちんと許可は、取って有ります・・・有った様な・・・多分有りますΨ(`▽´)Ψ )

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この軍事郵便は、ハワイ作戦後、南方作戦のために入泊したスターリング湾からの軍事郵便で手紙の差し出された日付は17年の3月18日となっています。南方作戦前に空母「赤城」に設置された第35海軍軍用郵便所気付で差し出されています。

差出人は蒼龍戦闘機隊所属だった野田光臣一飛曹差出で検閲者は、共にハワイ作戦などに参加した蒼龍戦闘機隊分隊長、菅波政治大尉です。

因みに、有名なハワイ作戦での野田光臣一飛曹が所属する蒼龍戦闘機隊は第一次攻撃隊の制空隊として参加、ホイラー及び、バーバースポイント飛行場を攻撃しました。

戦後の外国郵便再開

日本の敗戦後、一時期、日本から外国に差し出される郵便物はその取り扱いが停止されていましたが、昭和21年9月10日の葉書での外国郵便再開により日本の外国郵便は順次再開されていきました。

今日は、そんな外国郵便の第一便をご紹介しましょう・・・っても、別に特に珍しいもんじゃないのですけれどもね・・これは・・(爆)

因みに料金は特別地帯(台湾、朝鮮宛てなど)以外の一般外国葉書料金は50銭でした。

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これは、アメリカ宛ての東京の欧文印で抹消された例です・・が、これは俗に言う「フィラテリック・メール」です。しかも5銭加貼です。綺麗な葉書なんですが・・・・ね。

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こちらは、くたびれて汚いですが、石巻の和文櫛型印で押された料金もあったスイス宛の再開第一便です。

この後、昭和22年1月10日からは書状も解禁され、その後も外国宛の各種取り扱いが再開されていきました。この再開により今まで軍事郵便の延長で取り扱われていた復員郵便や武装解除郵便は全て、外国郵便の規定で差し出される様になり消滅しました。

おまけ
間違ってスキャンしてしまったのですが、折角の苦労がもったいないのでUPしましたΨ(`▽´)Ψ

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再開初期の11月23日差出のアメリカ宛ての葉書です。
因みに、この葉書の面白い所は、逓送途中の破損を米軍の検閲テープで補修している所なんですよね♪(・・・・だって・・米軍の検閲テープって・・よーく考えたらセロハンテープと同じなんですよね♪)

軍神広瀬中佐

今日は、久々に有名軍人シリーズで、軍神「広瀬武夫」少佐(死後中佐)をご紹介しましょう。

広瀬中佐で有名になった旅順港閉鎖作戦ですが、実際には第一回(明治37年2月24日)から三回まで実施された作戦で、丸腰の商船を使用した作戦は犠牲ばかり増え、5月3日の第三回をもって中止された作戦でした。
広瀬中佐は、第二回の福井丸の指揮官で参加していました。
詳細は、もっと詳しく書いたサイトが有りますのでそちらの方をご参照下さいm(_)m←いつも他力本願です・・・このブログΨ(`▽´)Ψ

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この手紙は、広瀬中佐の戦死、約一年前の少佐時代の手紙で、明治36年4月29日に横須賀から差し出されています。
軍艦朝日の水雷長を務めて居た時期の手紙で、差出のアドレスも横須賀、軍艦朝日となっています。

開戦後、日本軍南方占領前の主権国の郵便 3

調子に乗って今日もです。
まぁぁ・・・・完全なズボラですね♪

今日の使用例はビルマのラングーン差出のアメリカ宛て航空書状です。

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ラングーンを16年12月31日に差出、ラングーンで検閲されて英国インペリアル航空を使用してロンドンへ、ロンドンで航空扱いが取り消されて平面路を使ってアメリカへ逓送された手紙です。
日本のラングーン占領は17年3月8日でした。

やっぱ・・・12月は忙しいです・・・(TT)

開戦後、日本軍南方占領前の主権国の郵便 2

昨日は、蘭領インドをやったので、今日は調子に乗ってその第二弾イギリス領のシンガポール(マライ)の例です。

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これは、マレー差出の英連邦軍、17年1月6日軍事郵便所引き受け
のインド軍差出の軍事郵便です。

シンガポール陥落は17年2月13日でした。

今日は、結構ズボラですΨ(`▽´)Ψ

実は・・・今日、UPしようと思っていたシンガポール陥落一日前にの最後の便で差し出されたオーストラリア宛ての航空便が行方不明になりまして・・・・急遽インド軍の軍事郵便を持ち出した次第でして・・・汗。また、発見?発掘??出来ましたらUPしますね♪内輪ネタでしたΨ(`▽´)Ψ

開戦後、日本軍南方占領前の主権国の郵便

日本の太平洋戦争宣戦布告後、日本に占領された地域(南方占領地)の開戦後から占領されるまでの主権国の郵便物をご紹介しましょう。
日本は16年12月8日宣戦布告後、各地で各国に対し交戦状態に入りました。南方方面も日本軍が侵攻してその後の軍事行動によって随時占領されていきました。その間、日本に占領されるまでは、各国の各主権国の郵政が機能し、自国の民間便、及び軍事郵便を逓送していました。

今日は、蘭領インドの例、民間便と軍事郵便の二つをご紹介しましょう♪

蘭領インド、ジャワ・スマトラの英蘭軍の降伏は、昭和17年3月9日でした。

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この封書は、ジャワ島バタビア差出のアメリカ宛て航空書状です。引き受けは、17年1月26日で、次の日の27日に蘭軍の検閲を受けています。

もう一点軍事郵便

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ジャワ島スマラン差出、アンボン宛ての蘭軍軍事郵便です。
スマラン17年1月17日、蘭軍検閲は1月22日と同31日に行われています。

今日、ご紹介したのはいずれも日本軍の当地占領前の郵便物です。
まぁぁこんな歴史の狭間系のアイテムも面白いと思いUPしてみましたΨ(`▽´)Ψ

システム障害

昨日(8日の午前0時過ぎ)に、このブログが、多分サーバーさんサイトのシステム障害だと思いますが、一時期見れなくなっていたらしいです。
その時間帯に、こちらにおみえ下さった方には大変ご迷惑をおかけいたしました。m(_)m

三国干渉

今日は歴史的なお話おば・・・・Ψ(`▽´)Ψ

明治28年、日本は日清戦争の勝利によって、清国から遼東半島と台湾の割譲を受けました。しかしその直後から、日本の有益条件を面白く思わない、ロシア、ドイツ、フランスの三ヶ国は、日本に遼東半島の変換を要求してきました。そして三国は艦艇を芝罘沖に集結させて無言の圧力をかけてきたのです。三ヶ国が相手では海軍力では到底、太刀打ち出来なかった日本は、泣く泣くこの理不尽な返還請求に応じなければ成りませんでした。逆にこの三ヶ国はその見返りに清国から権益を取得し、ロシアは東清鉄道の敷設権などを所得しました。これを「三国干渉」と呼びます。

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この手紙は威海衛を再占領した歩兵第7連隊からの有料一般便です。
軍事郵便ではありません。
消印は、威海衛第一野戦局 明治31年1月17日です。

清国との戦いで多くの将兵の血を流して手に入れた権益を手放すのは、当時の国民感情としては耐え難い事で、「臥薪嘗胆」の言葉が歌われ、後の日露戦争の原因で引き金になった出来事でした。

たまにはこんなネタもどうでしょうか?

パールハーバー

今日は、やはり開戦日なんで何か持って来なくては・・・・って考えた末、いつもの軍事郵便の系統では無く、ちょいひねくれてこんなものを持って来て観ました・・・・まぁご笑覧あれΨ(`▽´)Ψ

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このMC※(マキシマム・カード)は第二次攻撃隊に参加した瑞鶴の97艦攻を題材とした当時の報道写真を元に、「20世紀シリーズ切手」の中の題材に選ばれた切手が貼って有り、その発売初日印が押されています。
(題材は、ヒッカム飛行場攻撃終了後、オワフ島上空を飛行する97艦攻です。)

この切手には一つ多きな間違いが有り、当時から話題になっていました。それはこの切手の中の題材、97艦攻の色なんです。
映画「パールハーバー」では、出て来た零戦が負け色(濃緑色)で出てきてブーイングが出てましたよね。この真珠湾攻撃に参加した97艦攻は基本的に濃緑色で正解、少し後ろの方が剥げて銀色のハゲチョロに成ってる感じ塗装(茶色を入れた迷彩色の機も存在しました)だったのですが、この写真に有る「Ell-307」機は、故障などで引き返す機などを誘導する為の誘導隊指揮官機なので、実際の塗装は目立つ様に、尾っぽが真っ赤に塗られた茶色と濃緑色の迷彩色機だったのでスンごく派手なカラーリングをしていました。(やもり・・・みたいな塗装ですよね・・・汗)

今日は、太平洋戦争開戦の日なんでもう少し重いモノを持って来ようかと思いましたが、今回は最近のモノでお許し下さい。

※MCとは切手と同じ図案の絵葉書または、それに準じた台紙に切手を貼って、それに因む印(初日印や特印など)を押したものです。

海軍穿孔

最近重い話が続いたので、今日は軽いお話をば・・・。
今日は軍事郵便ではありません。海軍の航空廠から軍艦霧島に差し出された小包です。

20061207001837.jpg

横須賀、大正12年10月9日差出も16銭貼りの小包みです。
(海軍穿孔切手貼り)

>軍艦霧島
金剛型戦艦の内の一隻です。詳しい解説は、霧島の軍事郵便をご紹介した時にしますね♪

形も大きさも感じの良い小包の使用例として気に入ってる例です。
宛先の書き方も特徴が有って面白いでしょう♪

やっぱ・・・12月は師走ですね・・・いつもボーっとしている様でも何かしら忙しいので中々時間が取れません・・・こんなお茶濁し記事が続くと思いますがどうかお許し下さいm(_)m

第62師団

最近、連日テレビの特報でクリント・イーストウッド監督の2部作の映画の第二部日本側から見た硫黄島戦を描く「硫黄島からの手紙」の宣伝が流れています。そこで、ミーハーな磯も何か特集を組もうかと考え、今日は、同じ20年に入っての激戦の島つながりってことで沖縄に展開した第62師団に宛てられた葉書を持って来ましたΨ(`▽´)Ψ
・・・ほっとにひねくれてますね・・・私・・・否、有る意味病んでいるのかな??Ψ(`▽´)Ψ

この第62師団は、昭和18年に独立混成第4旅団と独立混成第6旅団の一部を持って再編された師団で、主に山東省の警備に当たっていました。その後、19年8月に沖縄に転進、沖縄本島中心に展開しました。
20年4月1日の米軍上陸の正面に展開していた師団だったので激戦を強いられました。その後師団はジリジリと南に後退、6月22日に藤岡師団長が自決、師団としての戦闘に終止符が打たれました。

通称号は「石」編成地は華北、補充担当は京都で、終戦時の上級部隊は第32軍でした。

20061205010110.jpg

今日の葉書は軍事郵便では有りません、それは以前にも書きました様に、朱書きの「軍事郵便」が記入されていないからです。
この葉書は、部隊が沖縄に転戦後の19年10月に内地から差し出され、後に米軍に摂取されたものです。葉書表面には沖縄型(主に沖縄で使用されているのでそう私が呼んでいるので、正式名称とは違います。)と言われる米軍の摂取印が押されています。この摂取印の一部はアメリカ本土及び硫黄島(ここでも繋がりが・・・ってこじ付けですね^^;)での使用も現在確認されています(また機会が有ればUPしましょう)。
部隊アドレスは、那覇郵便局気付石第3596部隊で、独立歩兵第15大隊(京都)です。この部隊もやはり沖縄戦で玉砕していますので、この葉書の宛名主もお亡くなりになられているでしょう・・・・このタイプの葉書はやはり個人的にはすごく胸が締め付けられる思いのする葉書です・・・・ご冥福を祈りつつ・・・・合掌。

今月は、開戦(12月8日)月なのですが、あえて硫黄島月間にしましょうか?只今思案中です。

近衛第2師団

昨日またもや「持病の仮病」が出てしまったので、今日は真面目にやりたいと思ってます・・・。
心持は崇高だと思い込んでるんだけどなぁぁ・・・行動と内容が伴わないんだよなぁぁ・・・Ψ(`▽´)Ψ

っと言う事で、今日は近衛第2師団の軍事郵便にしようと・・・・思ったのですが、そこは私!ひねくれもんなんで「武装解除郵便」の方を取り上げてみました。

20061204234551.jpg

この葉書は戦後のスマトラから差し出されています。一見普通の軍事郵便の米軍摂取品に見えますが、ポイントはそのアドレスに有ります。
戦時中(降伏前)の日本の陸軍軍事郵便のアドレス表記ならば、「スマトラ派遣、宮3814部隊」と書かれるはずですが、この葉書は、モロに牽制部隊の名前をそのまま表記しています。
葉書の文面もそれらしい事が書かれており、戦後日本進駐軍の検閲免除印が押されているのもポイントの一つですね^^。

さて、この近衛第2師団ですが、本来元々の師団銘は、近衛師団でしたが、昭和18年6月1日に改変されました。近衛第2師団の前身近衛師団の編成は明治24年で、この「近衛」は奈良時代に天皇守護の為に作られた「近衛府」が語源で、明治4年、薩摩・長州・土佐の三藩から兵を募り作った「護身兵」が明治5年「近衛兵」に変わり、明治24年に「近衛師団」が誕生しました。

近衛師団は天皇の皇居守護を目的とした師団だったので、優秀な兵隊が優先的に配置されたエリート師団でした。

その後、27年の日清戦争(実際の投入は28年の終戦間際)、28年の台湾平定戦、37年の日露戦争にも参加、関東大震災の時の東京警備などの治安活動も行いましたが、それ以降の戦争、事変には参加しませんでした。

支那事変(日中戦争)が勃発後、昭和14年に師団の一部を持って「近衛混成旅団」が作られ華南に進駐、その後その一部は北部仏印などに進駐しました。この旅団は後の「近衛第1師団」の母体に成りました。

一方、近衛師団の本体は、15年に動員令がくだり、漢口や広東方面を転戦し、16年7月には南部仏印に進駐、太平洋戦争勃発後は、山下中将隷下の第25軍に属し、マレー・シンガポール攻略に参加しました。この時の電撃作戦で、この部隊は大量の自転車を使用したのが有名で、「銀輪部隊」といわれました。次にスマトラ攻略に参加、その後は18年5月18日に師団名を「近衛第2師団」に改称、スマトラを拠点にスマトラ警備を担当中に終戦を迎えました。

編成地はもちろん東京、補充担任・東京、終戦時の上級部隊は第25軍で終戦時の所在地はメダン(スマトラ)でした。

・・・・どうでしょう??今日はとりあえず真面目?にやってみました・・・どうして此れが毎日続かないのか不思議です・・・ハイ・・汗・・・いえ、理由は判って・・・んっまっそうゆう訳ですΨ(`▽´)Ψ

我がネームシップ

今日は、駆逐艦シリーズです。
ハイ!そうです!!なんと!今日は!我がHN(ハンドル・ネーム)の駆逐艦陽炎型、磯風の軍事郵便の登場です(><)

20061203230809.jpg

何故、私がこの艦をHNに選んだのか!?
謎が深まるばかりです・・・・次回にその真相が明かされます!

乞うご期待!!Ψ(`▽´)Ψ

・・・・平たく言いますと・・・今日もおサボリです(><)
明日は真面目にしますね。

第3師団

今日は師団シリーズの第3師団です。
昨日、おサボリしたので今日は真面目にいきましょうΨ(`▽´)Ψ

第3師団の歴史は古く、明治6年に名古屋に設置された名古屋鎮台から改名され、明治21年に第3師団なりました。
日清戦争では第一軍に所属して元山、仁川より上陸、平壌攻略戦や牛荘、海城の戦いに参加し、日露戦争では、第二軍に属して奉天会戦などに参加しました。大正時代はシベリア出兵に動員され、昭和に入りまず、第3次山東出兵、昭和9年より2年間の満州駐箚(チュウサツ)しました。昭和12年8月上海事変勃発に伴い第11師団と共に上海へ派兵、その後南京攻略戦、徐州会戦、武漢攻略戦などに参加し中国に駐屯し続けました。太平洋戦争末期の大陸打通作戦の第二期湘桂作戦に参加後、ニューギニアに投入される事となって、先遣隊だけ出発した所で、本体は中止となり上海方面に展開中に終戦を迎えました。
終戦時の上級部隊は支那派遣軍、所在地は鎮江(華中)でした。

編成地は名古屋、兵員補充区も名古屋で通称号は「幸」でした。

20061201233344.jpg

今日の軍事郵便のアドレスは、中支派遣 幸3704部隊です。
(三角票付陸軍特別軍事航空葉書の中支派遣軍で配給された、「鉄兜とはと」に現地で加刷されたものを使用)
部隊は、第3師団隷下の歩兵第68連隊(岐阜)です。

今日は、いつもより文書量が多めになっております・・・・まぁぁ昨日サボった分とたして2で割ったら・・・いつもどうりって事でお納めくださいm(_)m

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プロフィール

324-磯風

Author:324-磯風
1972年生まれ 男
軍事郵便保存会・関西事務局員
趣味と酒、食、女、宇宙戦艦ヤマト、インドア生活(休日)をこよなく愛す
趣味・秘密
本業・割と堅い職業
ニックネーム?・黒い服着た悪魔
トレードマーク・Ψ(`▽´)Ψ
PC系・電気系(家電も含む)が完全に駄目な私ですが、何時まで続ける事が出来るのやら・・よろしくお願いいたします。

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